金栗四三という選手をご存じだろうか。

過去何度も世界記録を塗り替えた日本人選手。

金栗は1911年、ストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会で40.225キロの世界記録を27分も縮めるという記録をだしてストックホルムオリンピックでの活躍を日本中から期待されていた。

1912年、ストックホルムオリンピックは多くの選手が棄権するなかで金栗も競技中に日射病で倒れてしまい、気づいたときには競技は終了していました。

そのため競技を中断して、そのまま帰国することとなります。

4年後のベルリンオリンピックも残念なとこに第一次世界大戦が起きたために開催が中止され出場できませんでした。

その後も

1920年(大正9年)のアントワープオリンピックでは16位
1924年(大正13年)のパリオリンピックでは途中棄権するとことなる。

ピークを過ぎていた金栗には厳しいオリンピックでした。その後の金栗は東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の実施をするために尽力します。

1967年(昭和42年)3月にストックホルムオリンピックの55周年記念の式典を行うとして金栗はスウェーデンのオリンピック委員会より招待されました。金栗はストックホルムオリンピックでのマラソンで棄権したことオリンピック委員会に伝わっていないことから「競技中に失踪し行方不明」とされていた。

オリンピック委員会は金栗に記念式典でゴールしてもらうことにしたのです。金栗はストックホルムに赴き、コールテープを切りストックホルムオリンピックを完走した。

その記録『54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3』

第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了したというアナウンスが流れました。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしています。

今も、これからも破られることのない、オリンピック史上で最も遅いマラソンの記録として残ったのです。